(その後の) a piece of cake !

今宵、すべての劇場で。

〝vocalise(ヴォカリーズ)〟リュカ第10回公演

アゴタ・クリストフの小説『悪童日記』の主人公の名から劇団名をとったというのがなんとも興味深いリュカ(Lucas [lyka])。なぜに、あの三部作?と思わずつっこみを入れてみたくなるが、それはさておき。1996年1月に、上智大学演劇研究会(Suite)のメンバーを中心に旗揚げ、以後、渡邊一功の作・演出で、公演を続けているそうな。〝vocalise(ヴォカリーズ)〟は、そのちょうど10回目の公演にあたり、今回は時間堂の黒澤世莉が演出を担当する。
開演時間に先立つこと15分前あたりから、女優さん(河合咲)の静かなひとり芝居が始まっている。やがて、そこがマンションの一室であり、彼女の職業が翻訳家であり、妹(稲村裕子)と二人暮らしをしていることなどが判る。そこに訪ねてくる編集者と思しき男(中田顕史郎)。彼女は、できたばかりの訳稿を渡し、彼はそれを朗読する。しかし、彼はそもそも元の原稿がまだ完全には出来上がってはいないと語り、彼女の方がちょっとびっくりする。そこに、訪問先を間違った隣家の客が玄関のチャイムを鳴らしたりして。
場面はかわって、その隣家。シュウ(根津茂尚)とかえで(こいけけいこ)の夫婦が、久しぶりにやってくる夫の友人たちをもてなす準備をしているところ。ふたりの間には微妙な違和感が流れているが、やがて次々に友人たちがやってくる。マコト(鈴木浩司)は妊娠したばかりの妻シノワ(雨森スウ)を伴い、ユリエ(境宏子)は、新しい恋人のアキオ(池田ヒロユキ)を誘って。しかし、夫婦の間に漂っていた湿った空気は、やがて全員の心にもじわじわと広がっていく。
ここから、静かに、しかし着実に物語の歯車は進められていく。6人の登場人物たちが、舞台上でさまざまに組み合わせを変えながら、シュウとかえでをとりまく状況を明らかにし、驚き、哀しみ、そして怒りをおぼえていく。実は、シュウは癌で余命いくばくもなく、妻と別れてひとりヨーロッパに向けて死の旅へ出発しようとしているのだった。
感心したのは、登場人物たちそれぞれの感情と心の動きをきめ細かに表現した脚本と演出、それに役者たちの技量である。舞台上で繰り広げられるドラマは静謐な空気を湛えているが、登場人物たちの移りゆく心が実にビビッドに映しだされていく。ミステリの謎解きにも似た繊細な物語の運びも素晴らしいが、その中で行き交う言葉や感情を、漏らさず拾っていくような密度の高い空間がそこには出現している。
結局、最後に明らかにされるのが、主人公の脆弱さに過ぎない(というか、そう思えてくる)という脚本のつくりには、やや拍子抜けの感がなきにしもだが、それをとりまくドラマの濃厚さは、実に見ごたえがある。さらに、そのメインの物語をサンドイッチするかのように挟み込むイントロとアウトロのエピソードも仲々素敵だ。アウトロは、後日談の意味も込められていて、人の世の移ろいやすさをも表しているように思った。
冒頭とおしまいに登場する中田顕史郎の朗読も詩的な雰囲気を湛えており、まるでメトロノームが時を刻むように、心地よいテンポとリズムを観客に意識させる。作、演出、そして役者たちの構築する世界観を味わったように思える充実した舞台だった。(110分)

■データ
2006年11月5日ソワレ/王子小劇場
11・2〜11・6
佐藤佐吉演劇祭参加作品
作/渡邊一功 演出/黒澤世莉(時間堂)
出演/池田ヒロユキ、境宏子、鈴木浩司、こいけけいこ、雨森スウ、河合咲、稲村裕子、根津茂尚(あひるなんちゃら)、中田顕史郎