(その後の) a piece of cake !

今宵、すべての劇場で。

〝迷宮の女〟

かつてビル・S・バリンジャーというアメリカのミステリ作家がいて、一見無関係なふたつの物語を並行して語っていき、それをラストで鮮やかに交叉させるという独特の小説のスタイルを得意としていた。「歯と爪」や「煙で描いた肖像画」などがその代表作だが、「迷宮の女」の劇場用プログラムに寄せるエッセイの中で、戸梶圭太はこの映画はそのバリンジャーを彷彿させると書いている。なるほど、「迷宮の女」は、ひとつの事件を、犯人逮捕までと犯人逮捕後のふたつの物語を交互に語っていく。
パリの市中を騒がせている連続殺人事件があった。犯人は被害者にダイスで勝負を挑み、負けた相手を殺した挙句、死体を持ち帰るということを繰り返していた。電車に乗りあわせた盲人は、犯人は複数で、互いに言い争いをしていたと証言した。パリ警察のレイ(エドゥアール・モントゥート)は、心理捜査官のマチアス(フレデリック・ディーファンタール)にプロファイルを要請する。犯人の思念にシンクロしながら、次第に犯人を追いつめていくマチアスの心に浮かぶのは、迷宮とミノタウロスの伝説だった。やがて、マチアスは地下の下水道に、おびただしい死体を発見する。これが一方のお話。
もう一方は、すでに犯人逮捕後の話だ。犯人のクロード(シルビー・テスチュ)は、精神鑑定のために治療施設で診察を受けている。彼女を担当することになった精神科医のブレナック(ランベール・ウィルソン)は、診察の最中に彼女から暴行を受けながら、クロードには多重人格の可能性があることを見出す。しかし、人格の統合は殺人に等しいと、統合に反対する。隙を見てクロードは治療施設を脱出するが、ダイスの目が帰れと告げたといって、施設へと戻ってきてしまう。やがて、院長のカール(ミシェル・デュシューソワ)の判断で、催眠術により人格の分裂が起きた子ども時代の誕生日に戻る試みが行われることに。
映画という表現方法を最大限に活かした作品である。この方法ならば、ぎりぎりフェアプレーといえるだろう。ただし、この複数の人格の描き方は、映画という世界においてのみ成立する仕掛けではあるとともに、一発勝負のようなところがあり、幾度も繰り返しはきかない。製作年が同じだし、偶然だと思うものの、ジェームズ・マンゴールド監督の「アイデンティティー」との一部類似点がわたしにはちょっと気になった。
印象的なのは、犯人役のシルビー・テスチュの中性的な存在感で、彼女の起用によってルネ・マンゾール監督の仕掛けた罠は、さらに効果をあげている。(ただし、終盤に一部フェアじゃない場面あり)またバリンジャー的な平行した物語構成も、観客に終始心地よい緊張感を与えているばかりでなく、それぞれのクライマックスで、見事なクロスを見せる。小さな事実の不整合が、物語の収束にしたがって一気に整合へと向かう展開も、なかなかの効果を上げていると思う。ただ、強いていえば、犯人のこども時代のトラウマがありきたりなのと、成人後の犯行がフィクション的で、いかにも頭で考えたつくりものめいているところが難といえば難。 [★★★]

(以下ネタばれ)
犯人のクロードも、心理捜査官のマチアスも、精神科医のブレナックは、実は同一人物であった。つまり、3人ともが、ひとりの多重人格者に潜む別々の人格だったのだ。映画では、それぞれの人格を別の役者が演じ、観客を欺くという手法がとられている。
クロードは、少年時代に母親からの虐待で多重人格者となり、妄想の中で親しんだミノタウルスの物語に従って、生贄を求めて毎年犯罪を繰り返していたのだ。

かつてビル・S・バリンジャーというアメリカのミステリ作家がいて、一見無関係なふたつの物語を並行して語っていき、それをラストで鮮やかに交叉させるという独特の小説のスタイルを得意としていた。「歯と爪」や「煙で描いた肖像画」などがその代表作だが、「迷宮の女」の劇場用プログラムに寄せるエッセイの中で、戸梶圭太はこの映画はそのバリンジャーを彷彿させると書いている。なるほど、「迷宮の女」は、ひとつの事件を、犯人逮捕までと犯人逮捕後のふたつの物語を交互に語っていく。
パリの市中を騒がせている連続殺人事件があった。犯人は被害者にダイスで勝負を挑み、負けた相手を殺した挙句、死体を持ち帰るということを繰り返していた。電車に乗りあわせた盲人は、犯人は複数で、互いに言い争いをしていたと証言した。パリ警察のレイ(エドゥアール・モントゥート)は、心理捜査官のマチアス(フレデリック・ディーファンタール)にプロファイルを要請する。犯人の思念にシンクロしながら、次第に犯人を追いつめていくマチアスの心に浮かぶのは、迷宮とミノタウロスの伝説だった。やがて、マチアスは地下の下水道に、おびただしい死体を発見する。これが一方のお話。
もう一方は、すでに犯人逮捕後の話だ。犯人のクロード(シルビー・テスチュ)は、精神鑑定のために治療施設で診察を受けている。彼女を担当することになった精神科医のブレナック(ランベール・ウィルソン)は、診察の最中に彼女から暴行を受けながら、クロードには多重人格の可能性があることを見出す。しかし、人格の統合は殺人に等しいと、統合に反対する。隙を見てクロードは治療施設を脱出するが、ダイスの目が帰れと告げたといって、施設へと戻ってきてしまう。やがて、院長のカール(ミシェル・デュシューソワ)の判断で、催眠術により人格の分裂が起きた子ども時代の誕生日に戻る試みが行われることに。
映画という表現方法を最大限に活かした作品である。この方法ならば、ぎりぎりフェアプレーといえるだろう。ただし、この複数の人格の描き方は、映画という世界においてのみ成立する仕掛けではあるとともに、一発勝負のようなところがあり、幾度も繰り返しはきかない。製作年が同じだし、偶然だと思うものの、ジェームズ・マンゴールド監督の「アイデンティティー」との一部類似点がわたしにはちょっと気になった。
印象的なのは、犯人役のシルビー・テスチュの中性的な存在感で、彼女の起用によってルネ・マンゾール監督の仕掛けた罠は、さらに効果をあげている。(ただし、終盤に一部フェアじゃない場面あり)またバリンジャー的な平行した物語構成も、観客に終始心地よい緊張感を与えているばかりでなく、それぞれのクライマックスで、見事なクロスを見せる。小さな事実の不整合が、物語の収束にしたがって一気に整合へと向かう展開も、なかなかの効果を上げていると思う。ただ、強いていえば、犯人のこども時代のトラウマがありきたりなのと、成人後の犯行がフィクション的で、いかにも頭で考えたつくりものめいているところが難といえば難。 [★★★]

(以下ネタばれ)
犯人のクロードも、心理捜査官のマチアスも、精神科医のブレナックは、実は同一人物であった。つまり、3人ともが、ひとりの多重人格者に潜む別々の人格だったのだ。映画では、それぞれの人格を別の役者が演じ、観客を欺くという手法がとられている。
クロードは、少年時代に母親からの虐待で多重人格者となり、妄想の中で親しんだミノタウルスの物語に従って、生贄を求めて毎年犯罪を繰り返していたのだ。