(その後の) a piece of cake !

今宵、すべての劇場で。

〝ヴィレッジ〟

この映画を観ていて、『世界がもし100人の村だったら』というベストセラー本のタイトルを思いだした。都会や文明から遠く離れ、わずかな人々が身を寄せ合い、自給自足で牧歌的な日々を送っている。舞台は、ペンシルバニアにある山間の村と思しい。冒頭、大写しにされる墓碑銘から、観客は19世紀後半という時代を思い浮かべるだろう。
この地を都会や文明から切り離しているのは、隣り合わせに佇む鬱蒼とした禁断の森であった。村には、その森をめぐる厳しい掟があった。すなわち、何者もその森に絶対に入ってはならない。そこに棲む〝口にしてはならぬもの〟と村との間には、平和協定のようなものが存在する。互いに領域を侵犯さえしなければ、彼らが村人に危害を与えることは絶対にない。村人の間では、そう伝えられてきた。
ところが、この共同体をまとめる村の年長者たちに、進言をする若者が現れた。その男ルシアス(ホワキン・フェニックス)は、森を越えて向こうの世界に行き、医薬品などを手に入れるべきではないか、と控えめに主張する。ルシアスは、ある日それを実行に移すが、その晩、たちまち〝口にしてはならぬもの〟からの恐怖の警告があった。
しかし、そのルシアスは、知恵遅れの友人ノア(エイドリアン・ブロディ)から受けたナイフの刺し傷で感染症にかかり、生死の境を彷徨うことになる。ルシアスの盲目の婚約者アイヴィーブライス・ダラス・ハワード)は、父親エドワード(ウィリアム・ハート)の助言を受け、薬を手に入れるため、掟を破り、禁断の森を抜けて町へと向かう決心をする。途中、森の中で〝口にしてはならぬもの〟からの襲撃を受けるが、相手を撃退し、森の外れに辿り着く。
異星人の侵略と主人公神父の信仰の回復をちぐはぐに結びつけた前作「サイン」でブーイングの嵐を巻き起こしたM・ナイト・シャマランだが、「シックス・センス」、「アンブレーカブル」と、本来はトリッキーな映画づくりを得意とする監督である。この「ヴィレッジ」は、公開時の評価は割れたようだが、ミステリ映画としてなかなかの出来映えではないかと思う。個人的には、これまでのベストに推したい。
映画初出演というブライス・ダラス・ハワードロン・ハワードの娘だそうな)が実に輝いており、愛のために行動する盲目のヒロインの、聡明で意志の強い役柄を、実に瑞々しく演じて、観客を魅了する。脇を固めるシガニー・ウィーバーウィリアム・ハートが堅実な演技を見せ、エイドリアン・ブロディは友人たちとの三角関係からはじき出された寂しい道化者の役を切なく演じきる。これら俳優陣の活躍は、シャマラン監督のあざとい演出を側面からリアリティで支える大きな役割を果たしている。
プロットでいうと、閉ざされた村、禁断の森、といういかにも胡散臭いガジェットから、何かあるぞ、という警戒心を観客は当然抱くのだが、物語の中盤、〝口にしてはならぬもの〟の正体を暴いておいて、その緊張感をシャマランは一旦断ち切る。しかし、そのあとにこそ、この映画の本質ともいうべき、なかなか現代的で気の利いた結末が、観客を待ち受けているのだ。
村の存続を危険にさらした一連の出来事を、逆手にとってプラスとするエンディングも見事。児童文学からの盗用という噂も囁かれているようだが、仕掛け自体に剽窃を取りざたされるほどの独創性もないので、これはシャマラン監督とそのスタッフの手柄と言っていいのではないかと思う。[★★★★]

(以下ネタばれ)
〝口にしてはならぬもの〟は、村を治める年長者たちが、村の平和を守るために作り上げた虚構だった。年長者たちは、〝口にしてはならぬもの〟の脅威で、村人と外の世界の行き来を遮断していたのだ。そもそも、この村は、凶悪犯罪などの犠牲者たちが寄り集まり、暴力や悪意が蔓延する外の世界との関係を一切絶ち、自分たちだけで平和に暮らしていくことを目的として結成された集落だったのだ。
森でアイヴィーの前に立ちはだかった〝口にしてはならぬもの〟の正体はノアだった。彼は、年長者たちが村人への威嚇用に保管していた衣装を身に着け、森へ出入りしていたのだった。
町へ出たアイヴィーは、森林警備隊の男と出会うが、盲目の彼女は薬をくれた相手がどういう人間だったのか分からないまま村へ帰り着く。年長者たちは、〝口にしてはならぬもの〟の言い伝えをこれからも守っていくことを話し合う。