(その後の) a piece of cake !

今宵、すべての劇場で。

『終の棲家は海に臨んで』のどこにも属さない魅力

ジャンル分けが不能の小説というのがある。ミステリ・ファンの中には、ジャンル間の見えない境界線を気にする人が比較的多いように思うのだけれど、わたしは気にしない。というか、むしろそういう小説の方が好きだ。予測不能の面白さもあるし、こちらの経験値が役に立たないというスリルもある。
小森収の『終の棲家は海に臨んで』は、カテゴライズ困難という点ではその最たるものといえるだろう。一種のピカレスク・ロマンかもしれない、とついついお里の知れるようなことを思いついたりもするけれど、それはどうでもいいことで、注目したいのはこの小説の無類の面白さである。海の向こうにページターナーという言葉があるようだが、まさに、ページを繰るのももどかしい、というのはこういう面白さのことを言うのだと思う。
登場するのは、東大出の一見平凡な公務員の青年である。ところが、この主人公は登場するや、たちまちのうちにこちら、すなわち読者の気持ちを絡めとる。冒頭、ワシントンDCにおける女性との一夜のエピソードがあるのだけれど、それが皇室というタブーを踏む心地よさと、くすぐったいようなロマンチシズムがあって、妙に心に残るのだ。
しかし、その一夜の出来事がもとで、主人公はエリート街道から外れていく。運命か、それとも本人のせいか。気がつくと、左遷に次ぐ左遷の人生が、彼を待ち構えている。
そんな主人公のままならない人生を、興奮とかを交えずに淡々と語っていくところが、この小説の大きな魅力といっていいだろう。他にも、登場人物の名前に都道府県名をつけるなど、小説世界は飽くまでのほほんとした雰囲気を湛えてはいる。
しかし、物語のクライマックスに向けて、物語は終盤、にわかにサスペンスを強めていく。先の見えない階段をのぼりつめていくようなスリルは、作者の巧妙なプロットなしには生み出せなかったものに違いない。章ごとのエピソードは、それぞれ独立しているような印象があって、ひとつひとつが人懐こい面白さを持っているが、物語の終盤に至り、非常に構築性の高い、計算された小説のつくりに気づかされる。
作者は、山本文緒篠田節子らの仕事を手がけてきたフリーの編集者だが、ミステリ・ファンの間では、雑誌〈ミステリマガジン〉の辛口な新刊書評でお馴染みだろう。個人的にはさらに時代を溯る、週刊のニューズレター〈初日通信〉の劇評から受けた刺激の方が大きい。わたしはあれですっかり演劇にハマりました。
自身の出版社りごりべーれ(発売:フリースタイル)から、セルフ・プロデュースのような形でこの作品をリリースしたのが、2003年6月のこと。そろそろこの作者の次の作品が読みたい、と思っているのはわたしだけだろうか?

終の棲家は海に臨んで

終の棲家は海に臨んで